自己紹介

【自己紹介】私のこれまでの経歴や生き方を語る

2020年12月8日

目次

はじめに

本記事は野球とは全く関係なく、これまでの人生を振り返った私の自己紹介記事となってます。自分のことをこのようにネットで公開するのは初めてで、少し不安もあります。ですが私がどれだけ野球に携わってきたかをしっていただくいい機会だと思いますし、より私のことを理解できると思うので、当記事を書くことにしました。

就職までのキャリアにおいて、絶対に落ちぶれたくないという強い危機感を持って歩んできたので、参考になる部分があるかもしれません。

前置きはこれくらいにして、早速幼少時代から書いていきますね。

(大学編の途中まで書いてます。以降は随時執筆していきます。)




プロフィール


野球が大好きな25歳男性です(本記事執筆時点)。野球歴は約14年。
1番の趣味は野球観戦。応援している球団はヤクルトで、ファン歴は約10年ほど。プロ野球自体が好きなので、12球団の情報を全て集めてます。

高校野球や大学野球も好きですね。一番印象に残っているのは2009−2010あたり。当時中学生だった僕の心に強く残っています。

野球のプレー以外にも大好きなのが野球の応援。個人的に野球の応援歌は神曲だと思っていて、いつも作業用BGMと化してます。この記事もチャンステーマ集を聴きながら編集しました。笑

他の趣味はスポーツ、ボウリング、カラオケ、ゲーム、麻雀など。

野球に関することを発信してみたいと思ってブログを開設しました。

~小学生

野球と算数に芽生えた幼少期

小学校入学まで

幼稚園までは埼玉、神奈川、静岡と色んなところで生活。

野球との出会いは母方の実家でテレビに巨人戦が放映されていたこと。素直にプロ野球選手がかっこいいと思い

「スポーツをやるなら野球だなぁ」

とこのときに決心したと思います。父親はサッカーをやらせたかったようですが、私の強烈な意志に負けて、小学校1年生から野球を始めることに。

小学校時代

小学1年生の夏に地元の軟式野球チームに入団。1,2年生の記憶は正直ほぼないんですが、、、野球を純粋に楽しんでいたと思います。

3年生でなぜか脚力が急激に開花。2年生までは50m走で女の子に普通に負けるほどでしたが、9.24秒まで成長。3年生にしたらまあまあ速い方だと思います。

この年に初めて運動会のリレーの選手に選出。非常に嬉しかった記憶あります。そこから小学校内では足速いキャラになってました。

3年生の終わり。もっとレベルの高い環境で野球がやりたいと自分から言い始め、地元の野球チームを退団。少年硬式野球チームに加入することに。

入団後任されたポジションは、、、まさかのピッチャー!?

スローボールしか投げられませんでした。球速は70-80km/hじゃないでしょうか(笑)さらに入団して2ヶ月で、、、公式戦で先発をまかされることに。
しかも相手は神奈川県準優勝の実績を持つチーム。
結果は、、、

\ 2/3回6失点で降板! /

まぁいきなり抑えられるほど甘くなかったです。笑
それ以来ピッチャーはやらず、内野手・外野手としてプレーしました。

少年硬式野球チームでの最後の県大会。
同点で迎えた最終回、飛んできたゴロをファンブルしてサヨナラ負けした経験があリます。
最後の試合を自分のせいで終わらせてしまったのは今でも苦い経験として心に残っていて、今後の野球人生にも大きく影響することになります。

勉強はそれなりにできて、成績は上の方でした。
「中学受験しないのか」と周りに沢山言われてましたが、そんな気は全くなかったので地元の公立中学校へ進学します。



中学校時代

振り返ると公私ともに充実していた3年間

野球では属していた硬式チームからそのまま持ち上がる形でシニアリーグへ入団。
中学1年生になると体が大きくなってくる選手も多い中で私の身長は約140cm。バッティングの技術はついてきたものの、パワーが全くなく打撃面では良い成績を残せず。武器である守備と足でアピールしてました。

レギュラーとして活躍できたのはわずか数ヶ月。3年生始めまでほぼ0でした。

最後の全国大会をかけた大会で14チームが全国大会に出場できる中、チームはベスト32まで進みました。相手は県内では名のしれた強豪チーム。2点差で負けてる最終回の攻撃で、私は代打で公式戦初出場を果たします。

なんとか粘った末に四球を選ぶ。なんとか繋いで役割を果たしました。しかしチームは敗北。全国大会には出場できませんでした。

最後の県大会では1試合だけスタメンで出場する機会をもらいました。練習にしっかり取り組んでいたところを監督に評価され、最後の最後で結果を残せて中学時代の野球生活でした。

高校でも野球を続けたいと決めていたため、野球を続けながら勉強もしっかりできる高校を選択。

勉強面はそこそこ優秀だと思われていたみたいです。音楽、美術、文系科目が全然できず、思ったよりは成績が伸びませんでした。

僕の偏差値的には65-70の高校を狙うのが妥当でしたが、なぜか第一志望で偏差値75の高校を選択。時間が全然ないので、クラブチームを退団した8月からはひたすら猛勉強に励みました。

そして…いざ受験。第一志望の偏差値75の高校には不合格。第2志望で受験した偏差値60後半の私立高校に合格し、高校受験は終了。人生で一番勉強した期間だと思います。

高校時代

とにかく辛くて、いい思い出は少ない高校野球生活

高校野球編

小さいときから憧れていた高校野球生活についに足を踏み入れることに。しかし高校野球は噂通りとても厳しい社会でした。

私は西東京の高校に通い、西東京ベスト32~8くらいの強さでした。設備がとても充実してましたが、通学時間が片道90分以上要し、家からはすごく遠かった。

そして毎日のように朝練、夜練。朝練のために毎日5時台に起き、帰りは9時前後。睡眠をしっかり取りたい自分にとっては何よりも苦痛でした。

練習だけならまだしも、勉強面でも手を抜く暇はありません。
毎朝、英単語か数学か漢字の小テスト。合格点を超えないと追試がありました。追試に引っかかると部活の練習に遅れるので、サボれません。
野球と勉強の両立をできないと野球に支障が出るので、朝の電車やバスで悠長に寝るわけにもいきませんでした。

肝心の野球面。入学直後は実力が足りず、1年生の7月までBチームの試合すら出られませんでした。

3年生が引退して、8月に初めて試合に出場。しかし技術、パワーともに足りずに結果を残せず。また雰囲気にビビってしまい、実力を全く発揮できませんでした。
自信より不安が上回ってました。結局先輩がいる間はベンチ入りできる気配もなく終了。

最終学年になり、新チーム発足直後ではレギュラーの次点からスタートしました。これまでの状況を考えるとかなり有利な立場をいただきました。しかし秋大会選考の練習・練習試合でもとことん結果が残せず、ベンチ入りの当落線上まで評価を落としました。
さらに最後のアピールでも失敗し、ベンチ入りを逃すことに。当時を振り返ると、1番の原因は慢心でしたね。技術・精神力共に全然足りてなかったと思います。

チームは本大会にも出られず敗北。ベンチ入り後は相当悔しかったので、今まで以上に練習に励みました。敗戦直後の練習試合でチャンスをもらうと3安打の活躍。首脳陣を見返す気持ちで結果出せました。
その後も一定の結果を残し、三塁コーチャーという新たなポジションを得たことがキッカケで3年春に初めてベンチ入りを果たしました。

3年夏は当落線上からのアピールスタート。大会終わり時点から夏に向けて実力が足りないのは分かっていたので、練習はしっかり継続してました。しかしGWという1番追い込みが必要な時期にアクシデントが発生。
GW全ての練習を終えた後、体に異常な倦怠感を覚えたのです。それでも無理して練習し、病院に行くと、、、インフルエンザ陽性が判明。3日間の寝たきり生活。病院で涙を流した記憶ありますね。
復帰した後も、1日で学校がテスト期間に入り全体練習は中断。

テスト復帰後、メンバー発表までの期間が2週間しかなく、そこで最終アピールできれば僅かながらチャンスはありました。ただ、ここでも結果は残せず。結局、最終メンバーからは外れ私の高校野球生活は終了しました。

ここから学んだのは、闇雲に練習しても意味ないし、どんな形であれ結果を出さなければ試合には出られないということ。技術に関して他のメンバーより多くのことを知ってる自信はありましたが、実践する力の方が数百倍大事ですね。他のメンバーは実力通りの結果を残していたし、メンバー入りも果たしていました。本番で結果を出すための技術と自分を信じる力を培えれば、今後の人生に間違いなく活かせるはずです。

高校時代をまとめると、性格は引っ込み気味になり、良くも悪くも浮き沈みが激しい3年間になりました。結果だけみると良くない3年間かもしれませんが、ここでしかできない非常に濃い3年間を過ごせたと思います。


大学時代


私は理工学部で機械系の学科に進学。元々大学に理系学生が集まった硬式野球部があることを知っていたので、文系に進むことは全く考えませんでした。

大学って異空間で、馴染みにくい印象を持っていましたが、そんな不安はすぐに消えました。人見知りはあまりしない方なので、意外とすんなり順応できたと思います。

大学野球編

高校野球で成果を出しきれなかった僕は「まだ野球をやりたい」感情が強く、熱心に野球に取り組める環境を選びました。入部したのは体育会系とサークルのいいとこ取りをしたような部活。
練習や試合にはしっかり取り組み、遊ぶときは真面目に遊ぶスタンスでした。

僕は1年生の頃から積極的に部活に参加し、先輩との交友関係を深めていきました。大学では厳しいよりか楽しく野球をやりたいと決めていたので、特に気負うことなく自分らしさを大切にしていました。
1~2ヶ月するとキャプテンの方に気に入ってもらえ、最上級生とも非常に良い関係を築けました。

そのおかげで入部して3ヶ月で試合に出る機会をいただきました。
1番の思い出は年1回だけある東京ドームでの試合て、外野からバックホームを刺せたことですね。おそらく人生で唯一の刺殺だったかも、、、?

部活では主にリーグ戦と最終トーナメント、2つの大会がありました。
結果として、3年間のうちリーグ戦は3年連続2位、トーナメントは1年生では2位で2,3年生では1位。常に上位で戦うことができました。
優勝を目指して戦えるとモチベーションアップになったので、非常に充実していました。

個人的にも3年生のリーグ戦では規定打席に到達し、苦手なバッティングでも打率3割を達成しました。
自分で考えて改善し、満足する成績を残せたことは素直に嬉しかったですね。大学でも野球に取り組んで本当によかったと思っています。

大学3年生で僕のプレイヤーとしての野球人生は終了。正直辛いことばっかりでしたが、野球に出会えて本当に良かったです!!

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  • この記事を書いた人

たい太郎

野球好きのデータサイエンティスト|野球歴14年|プロ野球観戦は10試合/年|応援歌好き:外野席によく出没|ヤクルトファン歴10年|主にプロ野球・野球観戦に関するお役立ち情報や考察を発信|ときどき野球以外。

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